マンフレート・フォン・リヒトホーフェン

こんにちはmikoです。寒さが厳しく、布団が恋しい季節ですね。年末も近くなり、大掃除の準備に取り掛かる人もそろそろ出てくる頃でしょうか。さて、連載第4弾はドイツのパイロット『マンフレート・フォン・リヒトホーフェン』についてです。

本名『マンフレート・アルブレヒト・フラヘイア・フォン・リヒトホーフェン』とは、第一次世界大戦期においてドイツが誇るエース・パイロットです。有史以来初の80機という極めて素晴らしい撃墜記録を達成した人物で、第一次世界大戦期のパイロットの中でも最高のエース・パイロットだといえます。

 

リヒトフォーヘンの名を知らずとも、「レッド・バロン」と聞けば一度は耳にしたことがある方もいらっしゃるかもしれません。彼の空中戦における非常に紳士的な態度は、天翔ける騎士とまで称賛され、自国では「赤い戦闘機乗り」、敵国であるフランスでは「小さな赤」「赤い悪魔」、イギリスでは「赤い騎士」「赤い男爵(レッド・バロン)」などと呼ばれていました。なぜ彼の異名のすべてに「赤」が入っているかというと、それは彼の搭乗機が明るい赤で塗装されていたことに由来します。

 

1892年5月2日に、リヒトフォーヘンはシュレージエン地方のブレスラウにてこの世に生を授かりました。彼は11歳で陸軍士官学校生徒隊に入隊しますが、あまり教官の指示も気にしなかったといいます。また、怖いもの知らずな彼は危険ないたずらをするのが好きで、教会の尖塔の避雷針によじ登り、先端にハンカチを結び付けるなどやんちゃな少年でもありました。そして1911年の4月に士官学校を卒業し、陸軍軍籍を得ました。

 

リヒトホーフェンは軍に入ると、まず槍騎隊に配属されました。そして、この頃に初めて戦争に飛行機が使用されているところを見て、飛行機に非常に興味を惹かれるようになります。後に彼は「私は飛行士が何をしているか知らなかった」、「飛行士の姿を見るたびに興奮した」と語っています。やがて戦争が膠着状態となり、騎兵の活躍の場は極めて少なくなってくると彼は槍騎兵部隊から転属願を出し、1915年5月に飛行訓練所へ入所することになりました。

 

彼が志願した当時、飛行隊にはまだ戦闘機は無く、飛行機は主に写真偵察や味方砲撃での着弾観測が任務で、戦闘機同士での銃撃戦はもちろん、編隊飛行さえ行っていませんでした。しかし、1915年8月頃には搭乗員が拳銃やライフルを使い、空中で撃ち合いが始まります。そして軽機銃で武装する機体が登場し、空中での銃撃戦が行われるようになりました。リヒトホーフェンも9月末にシャンパーニュで会敵し、初めて空中での銃撃戦を経験します。この時、フランスの敵機を撃墜しますが、惜しくもこの記録は非公式となりました。

 

そんなリヒトホーフェンは、当時エース・パイロットであったオズワルド・ベルケに出会います。そして空戦の極意を聞きますが「近くによって撃て」という簡素なものが返ってきました。さらに尋ねると、「君は爆撃機だが、自分はフォッカー単葉機に乗っているからだ」と返ってきました。これによってリヒトホーフェンは後方に下がらず、前線で戦闘機パイロットになることを決意します。

 

1915年12月25日、リヒトホーフェンはデベリッケでの訓練飛行を終えて、1916年3月、ヴェルダン前面の第二戦闘飛行中隊に参加しました。そんなリヒトフォーヘンを、ベルケは自らの率いる第二戦闘中隊に配属させます。そして4月25日フルリー・ドゥモーンでフランスのニューポール機を撃墜し、リヒトホーフェンがパイロットになって撃墜した第一号機となりました。しかし、これも公認の記録にはなっていません。

 

リヒトホーフェンの撃墜の公認記録は1916年9月17日、フランスのカンブレ上空でベルケに随伴して、哨戒飛行中のイギリス第11飛行中隊のEF・2b複座戦闘機を単機で撃墜したというものです。その後、彼の恩師であるベルケが10月28日に40機撃墜の記録を残し、戦死。ベルケの飛行中隊の部下6名も戦死してしまいました。しかし、リヒトホーフェンはめげずに戦果をあげ続けます。そして11月23日にバムポール上空で、当時イギリス最高のエース、ラノー・ホーカー少佐と交戦し、45分の激戦の末に勝利し、その名を轟かせることとなりました。その後、彼は1917年の1月までに15機を撃墜、プロイセン軍人最高の名誉の現れである「プール・ル・メリット勲章」を受賞します。

 

同月、リヒトホーフェンはエリート・パイロットたちで編成される第11戦闘機中隊の中隊長に任命されます。この中隊は部隊の識別色として機体に赤の配色をしていましたが、彼は自分の機体全体を、目立つように真っ赤に塗装していました。このことはドイツのプロパガンダに利用され、敵にも「赤い戦闘機乗り」の名が知られるようになります。これが「レッド・バロン」と呼ばれる所以ですね。

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https://ja.wikipwdia.org

 

1917年4月になると、リヒトホーフェンは騎兵大尉に昇進しました。加えてドイツの空軍部隊では、ようやく優秀な飛行機設計と大量生産ができるようになり、高性能な戦闘機が前線に配置されるようにもなりました。これにより、ドイツの損害は連合軍に比べて4分の1になったといいます。そして彼は4月2日に2機を撃墜し、4月29日までに計21機を撃墜。公式記録が前人未踏の52機を達成しました。

 

また、同年の6月初めには第一戦闘航空団指揮官に任命されます。指揮官となったリヒトホーフェンは部下に空中戦理論を教え、隊のスコアを上げることも余念がありませんでした。そんな彼の部隊からは多くのエースが輩出され、連合軍からは「リヒトホーフェン・サーカス」と恐れられていたそうです。その後も着々と記録を伸ばし、公認の撃墜記録を63機としました。

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https://ja.wikipwdia.org

 

1918年4月20日、新たに2機のイギリス戦闘機を撃墜し、公式撃墜記録80機と素晴らしい記録を達成した彼ですが、そんなリヒトホーフェンに終わりの時がやってきます。翌朝、彼は自身の飛行機に乗り込み、カピーの飛行場を飛び立ちました。第11飛行中隊と第5飛行中隊の15~20機で飛行中、11機で編成されたイギリス空軍第209戦闘機中隊に正面から遭遇し、空中戦となります。最初は攻撃に参加せず周辺で旋回援護していた彼ですが、戦域離脱をしようとしていた機体を発見し攻撃に入りました。しかし、敵のアーサー・ロイ・ブラウン大尉に後方から降下しつつ銃撃され、地上で展開していたオーストラリア軍地上部隊からも銃撃を受けました。リヒトホーフェンの搭乗機の右側から肺と心臓を貫通した一発の弾は彼に致命傷を与え、機体はヴォー=シュル=ソムンの北側のビート畑に不時着しました。

 

オーストラリア兵が駆け付けた時、リヒトホーフェンはすでに死亡していたといいます。彼の死は世界中に大きな影響を与えました。こうして最終階級は騎兵大尉、齢25歳でその輝かしい生涯を閉じました。彼は過去に不時着した際、「真の戦闘機パイロットは死ぬまで操縦桿を手から離しはしない」と語っていました。言葉通り、最期まで戦闘機パイロットとして空を飛び続けたリヒトホーフェン。まだ誰も知らないスピードで空を舞い、撃墜記録を伸ばし続けた彼を超えるエース・パイロットが第一次世界大戦期に現れることはありませんでした。ドイツ国民から愛され、敵味方問わず最高のエースと称された彼に、会ってみたかったと強く思います。

 

4回にわたり連載した「第一次世界大戦で活躍したパイロットたち」、いかがでしたでしょうか。少しでもパイロットに興味を持ってもらえたら幸いです。ではまた別な記事で、ありがとうございました。

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